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子どもから見た老人

静岡産業大学・経営学部助教授 杉山三七男

2005/1/15 No.1264  磐田市ホームページPDFファイル


  最近、子どもが老人のことを「汚い」と言っているそうだ。私には、来年米寿を迎える父がいるが、客観的に見るとそういう面もあるように思う。子どもは、その点を素直に表現しただけなのかもしれない。しかしこれまでは、ほとんどそのような形で老人を見ては来なかった。
 以前の老人は、両極の意味を持っていたのではないか。一方では怖い存在である。子どもが悪いことをすると、おじいさんが怒る。私も子どもの頃、鉈を持って追いかけられたことがある。両親も、その老人を人生の先輩として認めていた。
 その一方で、老人は甘える対象でもある。最近は、老人が怒らなくなった分、両親が怒っている。そこで子どもは、老人のところへ逃げて甘える。しかし、ここにまったく異なった視点が生まれてきた。それは、日常生活で老人との接点がほとんどない子どもたちの視点である。彼らにとっては、怖い存在でもなければ甘える対象でもない。もしかすると、見たままの存在なのかもしれない。
 しかし、それにしても「汚い」という表現は問題である。人は、その言葉を「汚い」と把握するだけではない。例えば、悪いという感覚、見たくないという気持ち、排除の意図などが付随しやすい。特に子どもは、言葉を感情とセットで身に付けやすい。その結果として、子どもたちがどのような行動をとる可能性があるかは言うまでもない。
 それを避けるためにも、子どもの頃から老人と接点を持たせるようにする必要があるのではないか。



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